2012年5月13日日曜日

だめな人とだめでない人のために

こないだとある本屋さんで見つけました。
昔実家にあったのを思いだし、ついつい立ち読みしてしまいました。



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何かが足りない
それでぼくは楽しくない

足りないかけらを
探しに行く

ころがりながら
ぼくは歌う
「ぼくはかけらを探してる
 足りないかけらを探してる
 ラッタッタ さあ行くぞ
 足りないかけらを探しにね」

かんかん照りあれば

涼しい雨も降る

雪でこごえたかと思えば
またぽかぽかのお日和

なにしろぼくの体はかけていて
あんまり速くはころがれない
それで立ち止っては
みみずとお話する

この花はいい香り

かぶとむしを追いこしたり

かぶとむしに
追いこされたり

こんな愉快なことはない

どんどん進む
海を渡り

「ぼくはかけらを探してる
 野越え海越え
 ランランラン ロンロンロン
 ぼくのかけらを探してる」

沼もやぶもものともせず

山に登って

またくだり

とうとうある日のこと
「ぼくのかけらを見つけたぞ
 ぼくのかけらを見つけだぞ
 ランランラン ロンロンロン
 ぼくのかけらを……」

「おい待てよ」
とかけらがいった
「調子よく歌うのもいいけれど……

 ぼくはきみのかけらじゃないからね
 誰のかけらでもないからね
 ぼくはぼく
 もしぼくが
 誰かのかけらだったとしても
 きみのだなんて思えない」

ぼくはがっかりしていった
「そう じゃましてごめん」
それでまたころがっていく

またかけらが見つかった

でも今度のは小さすぎ

こいつは大きすぎ

これは尖りすぎ

これは角ばりすぎ

ぴったりの
かけらを見つけたと
思ったのもつかのまで

しっかりはめておかなかったので

落してしまった

きつく
くわえすぎたら

こわれてしまった

とにかくどんどんころがっていく

むちゃをしたり

穴に落ちたり

石の壁にぶつかったり

そしてある日のこと
ぼくにぴったり合いそうな
かけらに出会った

「やあ」とぼく
「あら」とかけら
「きみは誰かのかけらかな?」
「さあどうかしら」
「でもきみは きみのままいたいのかもしれないね」
「誰かのものになったって あたしはあたしよ」
「でもぼくのものにはなりたくないかもしれないしね」
「さあどうかしら」
「でもぼくにはうまくはまらないかも……」
「やってみたら」

「どれ」
「ほら!」

はまったぞ
ぴったりだ
やった! ばんざい!

ぼくはころがる
もう
すっかりまるくなったから
前よりも
ずっと速くころがる
こんなことは
はじめてだ

あんまり調子よくころがるので
みみずとお話することも

花の香りをかぐことも

ちょうに止まってもらうこともできない

でも楽しい歌なら歌えそう
今なら歌える
「ぼくのかけらを見つけたぞ」

ぼくは歌いだす
「ぼぐのがげらをみづげだぞ
 ぼぐのがげらをみづげだぞ
 ラムラムラム
 ロムロムロム
 みづげだぞ」

あれ?
まるくなったと思ったら
今度はちっとも歌えない

「なるほど
 つまりそういうわけだったのか」

それでぼくはころがるのをやめて

かけらをそっとおろし

一人ゆっくりころがっていく

ころがりながらそっと歌う

「ぼくはかけらを探してる
 足りないかけらを探してる
 ラッタッタ さあ行くぞ
 足りないかけらを探しにね」

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出典:『ぼくを探しに』(原題:The Missing Peace)

シェル・シルヴァスタイン(著)
倉橋 由美子(翻訳)
講談社,1979



常に何かを探す旅は続くわけです。
自分に足りないものを探し、生きていくんですね。





人生でいいますと、
学校の成績、大学入試、就職、営業成績、伴侶、子供、家・・・・etc






満たされてしまうと人は求めることを止めて落ち着く。






しかし面白いことに長く落ち着いてしまうとその状況をつまらなく感じるようになり、
それを置いてまた次の足りないもの(Missing Peace)を求めに行く。







「何かを得るために何かを捨てる」
という言葉の意味も最近ちょっとずつ理解できるようになってきました。






学生生活もあと10ヶ月ほどでしょうか。
その仲で得れることは山のようにありますが時間は有限。







毎日を無駄なく過ごしていきたいですね。
今日はこのへんで。

2012年5月3日木曜日

節目

おおよそ4ヶ月ぶりの更新です笑







この4ヶ月を振り返ってみますと・・・・・・・
はい、見事に就職活動しかしてなかったわけですね笑







5ヶ月間という就職活動を経て、めでたく在阪の広告会社から採用通知を頂きました。
これで就職活動にはほぼピリオドを打つ形となったわけなのですが、
ご支援いただいた家族、友人には感謝をしてもしきれません。
決して自分一人で生きてきたわけでは無いことを再認識した就職活動でした。







このたび思ったこと。
就職活動というのは社会に出る前に一人一人が自分を知るための儀式なのかも知れません。



なぜその仕事がしたいのか?

なぜおもしろいのか?

どうしてそう思うようになったのか?
etc




なぜ、なぜと自らに問いかけてひたすら自分を洗い出していく。
そして自分を知っていく果てしない旅。
「職」を見つける旅は終わりましたが、「自分」を知る旅はまだまだ終わっておりません。
これからも「自分」と旅をしながら考えていこうかと思います。





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就職活動を終えた4月末のある日、
ある4人の人物に採用通知をいただいたことを報告しました。


しかし、その1人は直接会っていません。
僕の中では生きてはいるのですが、物理的に死んでいるため会えないのです笑
「もーれつア太郎」のようなお話しですね。






















2007年5月2日は父の命日でした。享年46歳。
生きてればもう51歳です。




「僕」という存在を全て創り上げたといっても過言ではありません。
実家が自営業ということもあり、
父という存在が家庭にいる時間は一般のご家庭よりも長かったと思います。
ボクシングを教えてくれたのもこの人。
兵庫北部で田舎で小売業が通用しなくなりつつも必死で家業を守っていました。
葬儀の時に、500人以上の方が来られたことは今でも覚えています。
まちの人たちにとても愛されてた父でした。




























高2の春16歳までしかこの人とは一緒にいれませんでしたが、
100年分くらいの愛情を頂けたのではないでしょうか。



遺影に向かって一言、「ありがとう」とお伝えしておきました。
(※写真は遺影ではありません笑)







僕も来年から会社に勤め、
いずれは家族を創るのかも知れません。






その時は、こんな父親になっていたいと思います。






久々のブログで乱文ですがそこはご容赦ください笑
ひとまず今日はこのへんで。